それでは早速ですが前回の続きから。
今回は五〜十二行目までを考察します。
難解な箇所は少ないので一気に進めたいと思います。
序文 ホツマツタヱを宣ぶ 五〜十二行
序文「ホツマツタヱを宣ぶ」の五〜十二行目には以下のように書かれています。
たみまして(民増して)
あまてるかみの(アマテル尊の)
みかかみお(御鏡を)
たしてみくさの(足して三種の)
みたからお(御宝を)
さつくみまこの(授く御孫の)
とみたみも(臣、民も)
みやすければや(身安ければや)
訳:
民が増えてきたので
アマテル尊のミカガミ(八咫鏡?)を足して
三種の御宝を授けた。
これにより御孫の臣、民も
身が安まるようになった(平穏に暮らすことができるようになった)
「アマテル尊」とは誰か
たみまして(民増して)
あまてるかみの(アマテル尊の)
とあります。
ここで「アマテル尊」というカミ(尊)の御名が登場しました。
ホツマツタヱを読み進めていくとかなりの頻度でこの御名が見られます。
日本人ならば「おや?」と思われるかもしれませんが、記紀などに見られる
「アマテラス大神」
が連想される御名ですね。
実際、記紀に見られるアマテラス大神のエピソードに通じるような記述がホツマにも見受けられます。
が、ホツマツタヱでは記紀のアマテラス大神とは大きく差異のある描かれ方もしています。
「アマテル尊」の詳細については後日しっかりとした考察記事を書くつもりなので、ここでは大掴みに紹介します。
アマテル尊は、ホツマツタヱではイザナギ尊とイザナミ尊というホツマ「最後の二尊」の御長男として紹介されています。
長男・・・そうです「アマテル尊」はホツマでは男神として描かれているのです。
多くの日本人にとってアマテラス大神といえば女神であるイメージが強いですが、ホツマではお妃を十三姫も娶り、多くの御子を遺した男尊として描かれているのです。
実は古事記でも天照大御神を明確に女神と記述する箇所は見受けられません。
日本書紀にのみ、
「ある書曰く、天照大日孁貴(あまてるおおひるめむち)神とも呼ばれる」
という記述が見られます。
どうもこの箇所のみが一人歩きして、
「アマテラスは女神の御名」
とする定説が根付いていったのではないか、と著者は推測します。
しかし、そもそもがホツマツタヱは「偽書扱い」されているわけで、このへんことはあくまで、
「ホツマツタヱという書物によると」
という前提の話として留め置いておこうと思います。
ちなみにアマテル尊は、姉尊のヒルコ姫の弟君であり、ツクヨミ尊とソサノヲ尊の兄君でもあります。
本当にこの神様の考察だけでまるまる一記事費やしても足りません。
今回はこのへんにしてまた後日語りたいと思います。
「アマテル尊のミカガミ」とは何か
五〜十二行目まで一気に読み進めますと、
民が増えたのでアマテル尊の御鏡を足して三種の御宝を授けた
と書かれています。
「アマテル尊の御鏡」を何に足したのかと言いますと、前回考察した「瓊矛(とほこ)」にです。
これにより、
末孫の臣民も身が安らいだ
ということなので前回考察した”瓊矛”同様、民の平安を守るための何かでしょう。
「民増して」とあるので、人口が増えてきたようです。
二尊による統治と瓊矛の力により人々が平和に暮らせるようになったためだと思われます。
しかし人口が増えていけばそれに比例するように社会はより複雑化していきます。
よって、それまでの統治手法では及ばない点も多々出てきます。
瓊(法律)と矛(武力)だけでは根本的な解決ができなかったり、ミイラとりがミイラになる的な瓊矛を悪用したりすり抜けたりするような事態も多々起きるようになったことでしょう。
そこで瓊矛に加えてもう一つ。 「ミカガミ(御鏡)」というものが必要になってきたようです。
「アマテル尊のミカガミ」とあるので、アマテル尊が考案したのでしょう。
その三つが揃うことにより、末孫の代まで安泰に暮らせるであろう、とも書かれています。
そのような人の社会に福音もたらす”ミカガミ“とは一体何なのでしょうか。
上記で”御鏡”という漢字を充てていますが、ここで書かれているのは”物実(ものざね)として”の鏡のことではなさそうです。
「カガミ」とは「明我見」もしくは「明暗見」のことであり、
「自らを映して糺せ」
という意味の”教え“のことだとホツマツタヱの先の綾にて述べられています。
「自分を映して(イメージして)客観的に我が身を捉え、外見や行いを糺せ」
という”教え”です。
これは人間の根本的な部分を形成する大切な教えです。
「自分を客観的に見る」、
ということはつまり、
「主観(自分)と客観(世界)を切り離して考える」
ということです。
もう少し噛み砕いて言うと、
「(自分としては)こうあってほしいなぁ…」
という”希望“と、
「(世界は)こうなっている」
という”現実“とを分けて考える、ということです。
これができないと今在る自分がどのような状態かが正確に判断できず希望的観測による自分像のみが一人歩きしてしまいます。
「自信過剰」や「自己否定」に陥ってしまうのはこのためで、現代でも多くの人が思い悩む原因となっています。
それが原因で独りよがりな凶悪犯罪を行なったり、自ら命を絶つような極端な行動に走ったりもします。
昨今も、「明我見」できない人が過剰だった自信を打ち砕かれて凶悪犯罪に走ったり、自分を卑下しすぎて自殺したりする例が後を絶ちません。
常に
「自分も世界もまだまだ不確かなものなので、気づいた時に都度修正していけばいいのだ」
という柔軟な考えを持っていれば極端な方向には行かないものです。
「明暗見」も、
「偏ることなく明るい部分、暗い部分双方を見よ」
という捉え方をすれば”カガミ”という教えをよく表した充て字です。
つまり”カガミ“とは、
「常に自らを顧みて律し糺せる臣民であってほしい」
というアマテル尊の”教え”であり”願い”なのでしょう。
瓊(法律)と矛(武力)だけでは心まで糺すことはできません。
臣民が個々で自分を糺していかなければ、瓊矛でいくら罰してもキリがありません。
世の中が荒れるときは例外なくこの”カガミ“の教えを人々が忘れ去っています。
もし、
今の世が荒れている、
と感じているならば先ず、人々がこの”カガミの教え”を取り戻すことに努力すべきだと著者自身は考えています。
ちなみに推測ですが、この教えが先にあって後、自分の姿を映す物が発明されたときに「鏡」と名付けたのだろうと思われます。
この「カガミ」という言葉だけで一冊の本が書けそうです。
日本が”まだ”平和な今のうちになんとかしっかり書き遺したいな、などと思っております。
まとめ
今回の考察は以上です。
- ホツマツタヱではアマテル尊は男尊として描かれている
- 人口が増えて社会が複雑化して瓊矛だけでは平穏を保つことが難しくなった
- アマテル尊が「カガミ(鏡)」という教えを考案し広めた
- 「カガミの教え」のお陰で末孫の代までの安寧が約束された(ただし人々が教えを忘れなければ・・)
「アマテル尊」と「カガミの教え」という重要な考察事項が出てきたため、それだけに記事のほぼ全てを割いてしまいました。
にも関わらず、両者ともまだまだそ語り尽くせていません。
なんという奥深く難解なものに手を出したのだろうか、と気を失いかけています。
とりあえず体調の良い内に進められるだけ考察を進めていきたいと思います。
最後に余談ですが「カガミの教え」には著者自身かなり助けられました。
この教えに出会うまでは、治らない大病に悩み、鬱々した日々を過ごしていました。
でも、
「今在る自分の姿を在るがままに見て、在るがままに受け入れる。そして自分と世界は常にあやふやで不確かなものだ、ということを受け入れる」
というこの教えの本質を知り、心身が信じられないほど軽くなったのを感じます。
自分にできることはできるし、できないことなできない。
これに気づくだけで人間とはかなり自由になれる生き物なのだ、と実感しています。
みんなで「カガミ」を取り戻したいですね。