前回考察の続きです。
今回は、
ホツマツタヱ序文 「ホツマツタヱを宣ぶ」
十三〜二十九行目
の十七行を考察してみたいと思います。
今回は少し長いですが、一気に読まないと分かりにくい箇所なので頑張ります。
そこには、ホツマツタヱ編者の一人であるヲヲタタネコの自己紹介と、なぜ自分がホツマの編纂に携わったのかが書かれています。
※ 前回まで”オオタタネコ“と記載していましたが、ヲシテ文字の読みでは”ヲヲタタネコ“と書くのが近いとのことなので、今後は後者で統一します。
原文と訳
原文(ヲシテ文字の音をひらがなに起こしました)は以下のように書かれています。
とみかおや(臣が祖)
しいるいさめの(強いる諌めの)
おそれみに(畏れ身に)
かくれすみゆく(隠れ棲み逝く)
すゑつみお(末つ身を)
いまめさるれば(今召さるれば)
そのめぐみ(その恵み)
あめのかえりの(天の還りの)
もふてもの(詣で物)
ほつまつたゑの(ホツマツタヱの)
よそあやお(四十綾を)
あみたてまつり(編み奉り)
きみかよの(君が代の)
すえのためしと(末の例と)
ならんかと(為らんかと)
おそれみながら(畏れ見ながら)
つぼめおく(窄め置く)
訳(原文一行ごとに改行しています):
臣(ヲヲタタネコ)の祖(祖父オミケヌシ)が、
(皇を)強く諌めてしまった咎により
畏れ多い身となったため
隠れ棲むまま今生を去る
定めの身であったが
今(また皇の元へ)召されることとなった。
感謝の意を示すため
天に還ることができた
感謝の印としての詣で物(謝礼)として
ホツマツタヱの
四十綾を
編纂して奉納する。
(この書が)君が代の
末代までの例(原典)と
なってほしいと
(僭越やも知れぬと)畏れ見ながら
窄め(纏め)置く
ヲヲタタネコ及び彼の一族がかつて置かれた苦境と、彼がホツマツタヱを編纂するに至った理由が綴られています。
早速ですが考察していきましょう。
ヲヲタタネコの祖父が犯した罪とは
とみかおや(臣が祖)
しいるいさめの(強いる諌めの)
おそれみに(畏れ身に)
かくれすみゆく(隠れ棲み逝く)
すゑつみお(末つ身を)
“トミ“とは臣のことででヲヲタタネコ自身のことを指しています。
よって「とみがおや(臣が祖)」とは「ヲヲタタネコの祖先の誰か」ということになります。
直後の文に
「しいるいさめのおそれみ(強いる諌めの畏れ身)に」
とありますが、いったい何のことでしょう。
誰が誰を「強く諌めた」のでしょうか。
文脈的にヲヲタタネコの祖先の誰かが誰かを諌めたようです。
「おそれみ」とは「畏れ身」だと思われますので、
「畏れ多い身」
であるということのようです。
なぜ我が身をそのように卑屈に表現するのか。
結論、畏れ入るほどの立場の人に、彼の祖先が「強いる諌め」を行ったため、ということになります。
ホツマツタヱを読み進めると、
三十二綾「富士と淡海、見つの綾」
において、ヲヲタタネコの祖父であるオミケヌシという人が、九代開花天皇(ワカヤマトネコヒコ)が行った “婚姻に纏わる不義理” に対し皇を諌めたため怒りを買った、という記述があります。
その直後、オミケヌシは都を追われスヱツミという地で隠れ住まなければならない身の上になってます。
当然、彼の一族も代々その地に暮らすことに。
この事件の詳細についてはその場面の考察の時にまた語りたいと思いますが、
ヲヲタタネコ及び彼の一族がそういう不遇な身の上であったことがここでは綴られています。
「ホツマツタヱ」が編纂された経緯
前項のように不遇な運命に遭ったヲヲタタネコの一族ですが、孫である彼の代でようやく赦され、一族は再び皇の傍に召し抱えられることになりました。
続きにはヲヲタタネコがなぜホツマツタヱを編纂したのか、が書き綴られています。
そのめぐみ(その恵み)
あめのかえりの(天の還りの)
もふてもの(詣で物)
ほつまつたゑの(ホツマツタヱの)
よそあやお(四十綾を)
あみたてまつり(編み奉り)
きみかよの(君が代の)
すえのためしと(末の例と)
ならんかと(為らんかと)
おそれみながら(畏れ見ながら)
つぼめおく(窄め置く)
一族が赦された感謝の印
「その恵み」、とあるので、感謝の意を表明しています。
日陰に追われた身から再び皇に召し抱えていただけたことに対し感謝の意を述べているようです。
続く
「あめのかえりのもふてもの(天に返りの詣で物)」
という文。
「詣で物」とは参拝時に天に捧げる返礼のことです。
「再び召し抱えていただいた御礼として(ホツマツタヱを)捧げます」
と述べています。
つまり、
ホツマツタヱ四十綾(よそあや)は、
ヲヲタタネコの一族が復権を果たし天(都)に戻ることができた御礼として編纂された、
ということになります。
ちなみに「よそあや」は”四十綾“という意味です。
一~十までは順に、「ヒフミヨヰムナヤコソ」と読みます(ヲシテの数えについては後日詳しく書こうと思います)。
“綾“というのは現代の書物でいう”章“のような意味になります。
それにしても史記の編纂というのはかなりの大事業です。
古事記や日本書紀、六国史もそれぞれ国家事業として膨大な時間(数十年単位の)、人員、そして費用を伴って編纂されています。
現代の歴史教科書(昨今はいろいろ史観・史実的に問題のある歴史教科書も多いですが・・)の編纂すら個人で行うのはかなり難しいレベルです。
現代のようにインターネットはおろか書物すら容易く手に入らない時代でなれば尚更です。
そのような大事業を請け負った訳ですからヲヲタタネコの感謝と覚悟の程が知れますね。
しかし読み込んで見ると著者には、単純に「感謝の意」を捧げた、というわけではないように思えてきます・・・
ヲヲタタネコがホツマに込めた想いとは
きみかよの(君が代の)
すえのためしと(末の例と)
ならんかと(為らんかと)
おそれみながら(畏れ見ながら)
つぼめおく(窄め置く)
ここには、
「このホツマツタヱが、君(皇)が統治していく末代までの手本なってほしい、などと恐れ多いかも知れない願いを込めながら纏めとする」
と書かれています。
この文から、ヲヲタタネコには編纂に当たって、ホツマツタエにどうしても込めたい想いのようなものがあったように感じます。
推察するとそれは、
「祖先に付けられた汚名を濯ぎたい」
という想いではないでしょうか。
「不義理を行なった」、
という事実に対しては、如何に相手が殿上人である皇といえど一言申し上げるべきである。
それを行なった祖父に対する仕打ちは不条理なものであった。
上の者が不条理を行えば下の者も感化され世は乱れていく。
上の者は自分が行なったことが原因であるので、その乱れを糺せない。
そして更に世は乱れていく。
結果、再び我が一族を召喚しなければならなくなったではないか。
開化天皇の不義が原因か、はたまた偶然か、その後、崇神天皇の御代まで世は大いに乱れることになります。
それに加え、崇神天皇と宮中の幾人かがオオモノヌシより、
「(世を糺すため)ヲヲタタネコを探し出し、三輪の祭主にせよ」
と告げられる同じ内容の夢を見ました。
そのお告げに沿って辺境に身を隠していたヲヲタタネコの一族が探し出され、復権が叶ったわけです。やはり祖父の処遇は不当なものであった、と証明されたのだという思いは強かったと思われます。
そのような「道を外れること」が起きた世を戒めたい意図も、この書に込めたかったのではないでしょうか。
その証拠にホツマツタヱは一貫して「道」について説いています。
ヲヲタタネコがホツマツタヱをそのような形で編んだのには、
「もう二度と、我が一族が受けたような理不尽が齎されることのないように」
という願いを込めた、それなりの覚悟とがあったように私には見受けられのです。
まとめ
今回は、
ホツマツタヱ序文 「ホツマツタヱを宣ぶ」
十三〜二十九行目
を考察し、ホツマツタヱ編者の一人とされるヲヲタタネコが
どのような人で、
どのような経緯でホツマ編纂に至ったか、
をまとめてみました。
- ヲヲタタネコの祖父オミケヌシは皇を諌めた罪で一族もろとも宮(都)を追放された
- 皇の不義理を諌めたもので、処罰は理不尽なものであった
- しかしヲヲタタネコの代で赦され、再び皇に仕えることになった
- 赦された御礼と、祖父と一族の汚名を灌ぐためにヲヲタタネコはホツマツタヱ編纂という大事業に乗り出した
以上が、今回のブログ主による考察のまとめです。
ヲヲタタネコはホツマツタヱで、現代にも通じる「道」を説こうと試みたように感じました。
上に立つ者が「手本」とならなければ、下に付く者は「道」を失います。
上に立つ者が悪いことをすれば、下の者が同じことをしても叱って糺すことができません。
この世は何だかんだで「上に立つ者」の質により良くもなり、悪くもなるのです。
社会が乱れる時は例外なく「上に立つ者」が腐っています。
あくまでも私見ですが、現代日本を見てもそれは通じているように思います。
アフリカを出て東の果てまで来た日本人は、そのような盛衰を幾度も見てきたのでしょう。
「道」に危うさを感じた時に必ずと言っていいほどそれを救おうとする人が日本に現れ、数千年にも渡ってこの国を守って来られたのは、そのような経験が魂魄にこびりついているからかも知れません。
「目上の者を敬え」
という強制より前に、
「下の者に敬われる者に成れ」
があるのが”ホツマ(秀真)の道”の真髄であり、 日本人の精神の真髄である。
そのように思えてなりません。
今、この国は「道」を見失っていないだろうか。
そのように疑い、「道」を探し続けることは日本人が祖先より課され続ける命題なのかもしれませんね・・