『神に祈る』ということを考えてみた
とかく近代日本人は神への信心を失ったと言われます。けれど有名な **神社** を訪れると、いつもたくさんの人で賑わっています。
初詣ともなれば、どんなに小さなお社の神社でも列ができるほどの参拝客を集めます。
いやいや単に寺社の建築物や景色を見るのだけが目当てだよ、
という人も中にはいるのかもしれませんが、
大半の人はその神社に祀られる神様に拝礼を捧げるために訪れています。
それほど多くの人が貴重な時間を使い、
時には遠方にまでの足を伸ばしてまで、
わざわざ神社に赴くのは一体なぜでしょう。
神殿の前で拝礼する際、人は神様に『願い事』を伝えます。
そのために神社に行く、と言っても過言ではないかもしれません。
ところで、どのように祈れば願いは叶うのでしょうか。
そもそも『 神に祈る 』とはどういうことなのでしょうか。
多くの人が、そのような根本的、根源的なことを考えず『神に祈る』という行為を行なっているように見えます。
かく言う私、ブログ主自身も最近まではそのような、ただ漫然と、漠然と神社を参拝してきた人間の一人です。
ただ、 記紀を読んだり、神職の方などにお話を聞いたりする内に、
「『神に祈る』とはどういうことなのだろう」
と、自然考えるようになりました。
各神社の由緒とか、祀られる神々のことを知るほどに神社を廻るのが楽しくなっていき、趣味からライフワークに近いものにまで昇華させていった者として、そのような自分の「祈り」に対する姿勢に疑問を感じるようにもなります。
そんな流れでこのブログ主が、いろんな書物を読んだり、
各神社の神職さんなどに話を伺ったりした事柄を纏めた上で、
『 祈り 』
について僭越ながら少し考察していきたいと思います。
書き始めると際限なく長い記事になってしまうことに気づいたので、ブログというものの性質に合わせ、小出しにネタ出ししていくことにしました。
よって、今記事上での言葉足らずな点は何卒ご容赦いただき、不足分は後の記事にて満たしていければ、と考えています。
現実主義的な文章も多々あります。
ともすると信心の深い方々には「不敬である」と、不快に感じられる文もあるかもしれませんので、予めその部分へのお詫びを申し上げておきます。
そもそも“いのり”とは何なのか
『 いのり 』を日本語の音として分解すると、”い”と”のり”に分けられます。
”い”という音は、古代より”気(ゐ)”の意味で当てられる場合が多い。
よってひらがなを当てる場合は”、い”ではなく“ゐ”になります。
“ゐ”には、”気持ち”や”思い”もしくは”意(思)”などを意味があります。
”のり”は”宣”、つまり宣言することです。
まとめると、”い(ゐ)のり”とは、
「気を(神に)宣べること」
という意味になります。
つまり、『(神に)祈る』、とは、
「(神様に)どうしてほしい」
ではなく、
「(自分は)こうします」
を神に伝える、つまり宣言することを意味します。
「自分はこのようにする決意をしましたので、神様に宣言します」
ということです。
例えば「頭が良くなりたい」と祈るのならば、
「頭を良くしてください」
ではなく、
「頭が良い人になるよう努力します」
「恋人ができること」を祈るのならば、
「恋人ができますように」
ではなく、
「恋人を見つけられるように頑張ります」
のように祈るのです。
そのように祈ることで、願いが叶うように自分の全身全霊をその願いに傾けていくこと。
それが「祈り」だということになります。
「努力しますので、自力の及ばない部分(他力や天災など)は神様のご助力をください」
と最後に唱えれば、後はもうそれこそ神頼み、ということですね。
願いを叶える『祈り』心理的効果
信心が深ければ深いほど、
神という存在にそれを“祈る(宣言する)“ことで後に引けなくなる、
という効果があります。
信心が半信半疑であっても、“祈り”には心理的効果があります。
まず第一に、自分のなりたい姿が明確に思い描けるようになります。
なりたい姿が思い描けなければ、具体的な目標も立てられませんからね。
第二に、何度も繰り返し祈ることで、願いを脳に刷り込むことができます。
心理学用語の『サブリミナル』と呼ばれる刷り込み効果です。
第三に、祈りを宣べることで、それまでの自分を顧みることができ、反省→最適化していくことができます。
繰り返し祈れば祈るほど、目標を見失いにくくなる上、自分の行動が目標に向けたものに最適化されていくわけです。
神前で祈るときには二礼二拍手一礼など、決められた所作があります。
これら一連の動作は、昨今一流スポーツ選手が取り入れるようになったことで有名になった
“**ルーティーン**”
そのもの。
ルーティーン(routine)という英語を訳すと、
「決まった手順」「お決まりの所作」「日課」
などの意味になります。
スポーツなどで本番開始直前に練習時から自分で決めている所作を行うことで、
練習で培い、染み付いたものが脳や身体に呼び起こされ、
平常通りの心身で臨めるようになるそうです。
神前で祈る二礼二拍手一礼などの所作も、その正に『ルーティン』です。
一日を始める前、
授業や仕事が始まる前、
神に祈る所作をすれば、神社で祈ったことが思い起こされ、
その日の行動も祈った目標に向けて最適化されていく、というわけです。
『祈り』とは、近代心理学の観点から見ても、
非常に理に適った『**自己実現**』のための作法だったのです。
ご先祖様も助けてくれる『祈り』
日本人は古代から、そのような心理的効果を見越して、神に祈りを捧げていたと思われます。
そう思う理由もあります。
昔はどこのおうちにも神棚があり、毎日いつでも神様に祈り捧げることができた、
というのもそう思える理由のひとつです。
我々のご先祖様は、毎日、何度も祈りを繰り返すことで、
「自分がどうなりたいのか」
を確認しながら、刷り込みながら、
日々の暮らしを送っていたのではないでしょうか。
そもそも日本人にとっての“神“は、他民族の神のように超常の力を持って人々に幸運や不幸を齎すような存在ではありません。
日本の神々は、自分たちの祖先であり、山や海や岩などの自然物であり、風や雨、雷のような自然現象といった、生活のごく身近に感じられるモノばかりです。
記紀を読んでも神々の営みは人間のそれと大差なく、時には滑稽にすら描かれているので、奇跡を起こして畏怖されるような存在ではありません。八百万と云われるほどの数の神を生み出してしまっているため希少感すら感じられません。
日本人が代々なにに祈りを捧げてきたのか、と勘繰ると、おそらく、
「自分にまで紡いでくれたモノたち」
に対してだと思います。
先祖が生まれてくれなければ、自分は生まれてきませんでした。
地球上の自然物が人類に適す環境になってくれなければ、自分は生まれませんでした。
宇宙が地球を生んでくれなければ、自分は生まれませんでした。
そもそも宇宙が誕生してくれなければ、自分は生まれませんでした。
古代の人々がそのような本質的、根源的なことに想いを馳せて誕生し、感謝を捧げられてきた存在が、日本における“神”なのではないか、とブログ主は推測します。
神前での参拝作法として、二礼二拍手した後に、自分の願いを云う前に先ず、神への感謝の意を宣べます。これは正に、自分にまで紡いでくれた全ての存在に対する感謝に他なりません。
そう考えると、祈りを捧げることで、答えが見つかる、なんてことは特段非科学的なスピリチュアルめいた話でもないように思えます。
宇宙開闢以来自分を形成してきた様々な事象の記憶なり記録なりが、遺伝子なりなんなりの身体のどこかに刻まれていて、それが“祈る”という所作をきっかけに呼び起こされ、答えを見出す一助になる、みたいなことは原子、量子単位で考えれば、それほど不思議なことでは無いのかもしれません。
なにしろ量子学なんて人類がまだ思い至ったばかりで、ほとんど何も解明されていませんもんね。量子学と対極のマクロを見つめても宇宙という、人類が未だ数%しか理解していない存在もあります。
情報がどのくらい細切れにされ、どこに仕舞われているかなんてわかったものではありません。
現に「内なる何かの声を聞いた」、とか、「天からお告げが降ってきた」、
みたいな話はよく聞きますし、読者ご自身でも少なからず経験があるのではないでしょうか。
思考がここに至ると、自分自身もまた綿々と紡ぐモノの一部であることにも思い至り、世界が拡がったような感覚を覚えて、今ここに在る幸せを実感できるようになります。
「願い事を口にすると叶わない」は本当か
補足として、よく、「願い事を口にすると叶わない」と言われたりします。
しかしブログ主がいろんな神社の神主さんや神職さんに訊いたところ、
どうやらそれは 迷信 のようです。
むしろ、「願いはどんどん口に出しましょう」と仰る方が多かったです。
先述の通り、 『願い』を叶えるには『祈る』、
つまり「気(意)を宣べる」ことが重要です。
むしろ自分の周りの人にも伝えた方が、周囲を巻き込んで叶いやすくなりそうです。
神様への宣言プラスαで他者への宣言で、より後に引けなくなりますしね。
ただし、邪な祈りを口にすると、神々からも周囲の人からもドン引きされるので協力してもらうことができませんので、逆に叶いにくくなる。
ご自身に置き換えても、
眉をしかめる様な願いを口にする人の助けになろうなんて思わないでしょう。
願いを叶える近道は、他人から協力してもらえることです。
他人に協力してもらえない願いは叶うどころか邪魔をされ、阻害すらされます。
その上、他人からは人格も疑われてしまうので、その他の真っ当な願いも叶いにくくなっていきます。
自分だけが得をするような、やったもん勝ちな祈りは口に出すべきではありません。
このことが転じて、「願い事を口にすると叶わない」という誤った俗説が定着したのでしょう。
以上、ブログ主なりに「いのり」について考察してみました。
今後、新たに気づいたこと、ここに書き切れなかったこと、書き忘れたこと、など、どんどんこのブログに上げて、僕自身を最適化していくつもりです。
ご興味があればお付き合いください。
この記事が読者の皆様が幸福になれる一助になれば幸いです。