こんにちは、きわぼっちです。
一般的に『偽書』と呼ばれるホツマツタエについて考察しています。
ホツマツタヱに関して考察する際は、冒頭でこのように断らないと
「無価値の偽情報サイト」
と見なされるようです。
めんどくさいものです。
『偽書』大好きな人集まれ。
ということで今回も引き続き、
ホツマツタヱ序文 「ホツマツタヱを宣ぶ」
を考察します。
三十〜三十五行目を考察していきますので、
全文を確認したい場合は こちら をご参照ください。
今回の主なテーマは、
『ホツマツタヱは誰に向けて書かれたのか』
について、です。
今回考察する箇所の原文と解釈
「ホツマツタヱを宣ぶ」、三十〜三十五行目は以下のように書かれています。
これみんひとわ(これ見ん人は)
しわかみの(地上の)
こころほつまと(心、秀真と)
なるときは(成るときは)
はなさくみよの(華咲く未代の)
はるやきぬらん(春や来ぬらん)
ブログ主の解釈
これを読まない人はシワカミの心のままです。
しかし、読めばその心がホツマにへと昇華し、
目の前の世界が花咲く春に彩られるでしょう。
それでは早速、順に見ていきましょう。
「ホツマツタヱを読むべき人」は誰か
これみんひとわ(これ見ん人は)
と書かれているので、この箇所は、
“ホツマツタヱを読むべき人“
について書かれているようです。
“見ん人“を、
「読んで理解した人」と解釈することも、
「読まない人」と解釈することも可能だと思います。
前者の場合は、
「これを読み、理解した人はシワカミの心がホツマと昇華します。
その時は花咲く御代は春に彩られるでしょう」
後者の場合は、
「これを読まない人はシワカミの心のままです。
しかし、読めばその心がホツマにへと昇華し、
目の前の世界が花咲く春に彩られるでしょう」
という解釈にそれぞれなるでしょう。
少し回りくどい言い回しですが、ブログ主的には後者かな、と思います。
”心”が掛詞に使われていることになるので、和歌らしく、
この書の序文に相応しい表現のような気がします。
どちらの解釈であっても読むべき人は、
「シワカミの心の(ままの)人」。
つまり、
「まだ心がホツマに達していない人」
ということになります。
それでは”シワカミ“と”ホツマ”とは一体なんでしょう。
“シワカミ”と”ホツマ”
“シワカミ“とは、
「皺のように凸凹したもの(調ってないもの)の上」
という意味になります。
つまりそれは、
まだ調和の取れていない混沌とした無秩序状態の場所、
と解釈できます。
それに対して”ホツマ“とは、
「光(星)つ間)」
つまり、
星々が瞬く天の周期のように秩序ある調和の取れた場所、
という意味だと思われます。
以前の記事 で”アメ”と”ツチ”の関係について述べました。
「あめつちのひらけしときに」
という一文をここのブログ主は、
「長く相争っていた”アメの民”と”ツチの民”が、争いを止め平和になった」
と解釈しています。
そのとき、高度な文明と思想を持つ”アメの民”が、”ツチの民”を教え導く上位の存在として融合していったのではないか、とも書きましたが、ここの記述はその仮説を裏付けるように感じてしまいます。
「”アメの民の教え”がツチの民に浸透した世界こそが”ホツマ”な世界である」
つまり、”アメ”が”ツチ”より上位の存在であることを示唆しているようにも読めます。
しかし、その辺を直接的に記述すればツチの民への嫌味が過ぎます。
これから仲良く助け合って素晴らしい社会を築こうとしている最中に反感を生んでしまっては本末転倒。
なので、”ツチの民(もしくは文化)”を少し遠回しに表現するために”シワカミ”という言葉を生んだのではないか、と邪推します。
しかし、「アメの教え」は以前考察した三種宝のひとつである「カガミの教え」ように素晴らしいものです。
我欲を抑え、他者を思いやることで世の中は初めて円滑に動くのだ、という現代人にも伝えたい社会形成のための業です。
今回の”遠回しに伝える”というのも、実に日本人らしい気遣いを感じられます。
このように、力で押さえ込むような姿勢でなかったが故、”アメの教え“はツチの民の人たちにも特に抵抗もなく浸透していったものと思われます。
「春や来ぬらん」
はなさくみよの(華咲く未代の)
はるやきぬらん(春や来ぬらん)
で一文が区切られています。
ここにある
「春や来ぬらん」
は、和歌や日本文学などにも多く登場する決まり文句です。
代表的なものに万葉集の、
春やきぬらん 風の吹き渡る野原に 花が咲く
という和歌があります。
作者は不明ですが、後に編纂された
新古今和歌集
にも収録されているほどの名歌です。
さらっと文字を眺めただけで春風の清々しさを感じますよね。
ブログ主もこの歌大好きです。
他にも、「源氏物語」、「伊勢物語」でも使われています。
「源氏物語」では、
第二帖「花宴」の中で、光源氏が藤壺の歌に対して返歌する形で詠まれています。
「伊勢物語」では、
初段「初冠」の中で、業平が詠んだ有名な歌として登場します。
オオタタネコ(大直禰子命もしくは大田田根子)という人が実在し、この序文を書いたとされるのが事実であるならば、ここの一文が後の世の詠み手に影響を与えたのかもしれませんね。
もちろん、事実は歴史という霞の中ですが・・・
まとめ
今回の考察をまとめます。
- 「ホツマツタヱ」を読むべき人は、まだシワカミの(心の)人々である
- “ホツマ“とは「秩序ある調和の取れた場所(世界)」のこと
- “シワカミ“とは未だホツマに成っていない「無秩序で混沌とした世界」のこと
- “アメの教え“とは、我欲を抑え、他者を思い遣ることで社会を円滑に回そうとするための業
- 「春や来ぬらん」は後の世の文献にも多く登場する歌の決まり文句
現代の日本人は、またシワカミの心に戻ってしまったようにも感じてしまう殺伐とした昨今。
もう一度ホツマを取り戻すべくこの壮大な叙事詩を読み込んでみると、個々の日本人にとっても忘れかけた大切な思いが見つかるかもしれませんよ。
当ブログがその一助になれれば幸いです。